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世紀の発明「フラッシュメモリー」を作った男 東芝を追われた苦悩の道のり

2019/01/28

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会社のためにどれだけ骨身を削って働こうと、努力が報われない。そんな逆風のなかでも自らの信念を貫き続け、世界的偉業を成し遂げた男がいる。今日発売の「週刊現代」で、決して平坦ではなかったその苦悩の道のりを追う。

ジョブズと並ぶ日本人

「フラッシュメモリーの登場によって私達の生活は驚くほど一変しました。この発明による舛岡さんの社会への貢献は、同じエンジニアの目から見てもノーベル賞に値するほどの価値があると思います」(半導体メモリー開発企業・フローディアの奥山幸祐社長)

米国、シリコンバレーにあるコンピューター歴史博物館。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった錚々たる面々と並んで、一人の日本人の写真が掲げられている。

舛岡富士雄(75歳)。あまり聞き馴染みのない名前かもしれないが、’84年、東芝の研究者時代に「フラッシュメモリー」を世界で初めて開発した人物だ。

小さく、安く、大容量。そして何より、電源を消してもデータが消えない。かつて主流だったメモリーは、電源を消すとデータが消える弱点を抱えていた。

この課題を克服する画期的な記憶装置として、フラッシュメモリーは、パソコンから携帯電話まで、身の回りのあらゆる製品に使用されている。

いまや、その市場規模は7兆円とも言われる「世紀の発明」だが、舛岡の名はおろか、この開発が日本人によって行われた事実すら、知る人は多くないだろう。

舛岡本人が語る。

「どれだけ世の役に立つ発明をしても、成果物は会社のもので、それを作り出した本人は評価されないのが現実でした」

舛岡は、フラッシュメモリーの試作品を開発してから10年後の’94年に、51歳で東芝を去っている。その後は母校である東北大学大学院の教授となり、退官するまでを過ごした。

したがって、東芝でフラッシュメモリーが実用化され、市場を席巻していくさまを、その一員として見ることはなかった。

なぜ、革新的な発明をした天才は、東芝を去らなければならなかったのか。そこには無念と栄光の物語があった―。

舛岡は、東北大学大学院で半導体の権威・西澤潤一教授に学んだ。時代は高度成長の真っ只中、就職時には多くの企業から声がかかったという。

「大手メーカーのなかには、芸者さんがいるような料亭で接待し、ハイヤーで送迎までしてくれるところもありました。

一方、東芝は研究所に所属する武石喜幸さんという方が上野駅に来て、駅構内にある立ち食いそば屋で、かけそばを一杯奢ってくれただけ(笑)。

しかし、他社の人たちが、既存の製品の魅力ばかりを説明するのに対して、武石さんは『まだこの世に存在しないものを作ろう』と語りかけてくれた。こういう人と一緒に働きたいと思いました」(舛岡)

質はいいが、売れない

’71年、東芝に入社した舛岡は、武石に見込まれた通りの目覚ましい活躍を見せる。入社からわずか4ヵ月で、フラッシュメモリーの原型となるSAMOSというメモリーの改良に成功。入社5年目には、さらに別のタイプのメモリーも開発した。

独創的な発想を武器に、順風満帆の研究者人生を送るかのように思われた舛岡だったが、入社7年目の’77年、初めての挫折を味わう。

その頃、東芝は「DRAM」と呼ばれるメモリーを開発していた。

当時、この分野でトップを独走していたのが米国のインテルだ。自分たちが手掛けた製品の質には絶対の自信があるものの、後発でシェアを獲得できない状況に業を煮やした舛岡は、なんと営業への異動を志願して渡米する。

「『俺が売ってやろう』と威勢よく向こうに渡りました。ところが、東芝のDRAMは性能が良いぶん高価だったので、価格競争力が低かった。コストを下げなければお客さんには売れないということを、身をもって味わいました」(舛岡)

自ら望んで異動したにもかかわらず、営業として成果を残せなかった舛岡への視線は、冷たかった。古巣の研究所に戻ることはできず、半導体製造工場への異動を命じられる。

そこでも生産コストの低減などで成果を出したものの、待てど暮らせど復帰の声はかからない。

〈もう一度、研究の現場で新技術を作りたい〉

’87年、舛岡は実に10年近いブランクを経て、ようやく研究所へと戻り、グループ長に就任した。

新技術開発に執念を燃やしていたある日、舛岡の頭をよぎったのは、かつて営業時代に米国で顧客に言われた言葉だった。

「性能は低くていいから、もっと安くならないのか」

あえて性能を抑えてでも、「需要に見合う技術」を作らねば。舛岡は新たな仮説を立てる。

あまりに先取りしすぎた

既存のメモリーは小さなデータをひとつひとつ「正確に」消去するのに大きなコストをかけていた。しかし使用する製品によっては、それほど細かい単位での消去を必要とはしない。

そこで、あえて「細かさ」を捨ててすべてのデータを一括で消去するメモリーを生み出せば、低価格を実現できるのではないか。営業経験を積んだからこそ見えた先見だった。

舛岡は、このアイデアを実現するため、予算の確保に奔走する。

「将来、家電をはじめとしてあらゆる製品において廉価のメモリーが必要になる。かならず成功させるので1000万円の予算をください」

しかし、当時は他社より少しでも高性能の製品を開発することが良しとされていた時代。あえて性能を落とすという舛岡のアイデアは、社内で受け入れられなかった。

「舛岡さんは、よく『小型のメモリーがあれば、将来、ジョギングしながら音楽が聴けるようになる』と話していたそうです。

しかし’80年代はまだCDプレイヤーが主流。時代を先取りしすぎたために、周囲からは『変人の夢物語』としか考えられていなかったのです」(前出・櫻庭氏)

だが、舛岡の才能を信じ、手を差し伸べてくれた人物がいた。かつて、舛岡を入社へと導いた武石だ。武石は当時、半導体技術所長を務めていた。

「武石さんは、『自分で考えて自分で行動しろ』と言う人でした。私が『新しいメモリー開発の資金がない』と相談すると、より資金の潤沢な他の部署のリーダーに、開発費をわけてくれるように交渉することを認めてくれました。普通はあり得ないことです」(舛岡)

’83年、舛岡はついに新しいメモリーの試作に成功。部品を減らしたことで、コストは従来の4分の1に低減。

カメラのフラッシュのようにデータを一瞬で消すことができることから、「フラッシュメモリー」と命名した。

だが、いざ製品化しようとすると、新たな問題が立ちはだかった。

「まだスマホもなかった時代。安価でコンパクト、かつ大容量のメモリーを作っても、市場がなかったのです」(前出・奥山氏)

時代の先を行き過ぎたがゆえに、製品化ができない。苦境に追い打ちをかけるように、舛岡に悲しい知らせが舞い込む。入社以来、ずっと舛岡の味方だった武石が亡くなったのだ。

飼い殺しにはならない

上司への直言も辞さない性格ゆえ、敵も少なくなかった舛岡を一貫して守り続けた武石の死は、社内での舛岡の立場を一変させる。

会社が舛岡に提示したポストは、研究所付の技監。研究所のナンバー2といえば聞こえはいいが、部下も研究費もない、いわば「閑職」だった。

「研究の場を失うのは、エンジニアにとって死を意味します。どうしても納得がいかず、自分の上司に不満をぶつけて3年間必死で抵抗し続けました。しかし、『命令に従わないなら一人で勝手にやれ』というのが会社の結論でした」(舛岡)

研究したいのにできない。「飼い殺し」ともいえる状況に耐えかねた舛岡は’94年、なかば追われるようにして23年間勤めた東芝を去り、東北大の教授職に就いた。

その後、事態は急変する。2000年代、パソコンの普及により、フラッシュメモリーの売り上げが爆発的に伸びたのだ。

’01年には市場規模は9兆円を突破。東芝は’01年にDRAM事業から撤退し、フラッシュメモリーに経営資源を集中させると発表。時代がようやく舛岡に追いついた。

たとえ会社から評価されなくとも、自らの信念を貫き続けた舛岡。その執念の果てに作られたフラッシュメモリーが使われ続ける限り、舛岡の栄光が色褪せることはない。(文中一部敬称略)

発売中の週刊現代では、このほかにも’04年に舛岡氏が東芝を相手に起こした訴訟の真意や、古巣への現在の思いなどについても特集している。

[via:「週刊現代」2019年2月9日号]
http://news.livedoor.com/article/detail/15936069/

サムスンへの技術提供を後悔

スマホなどの登場で2006年にはフラッシュメモリーは東芝の稼ぎ頭に成長しました。

しかし、当時、メモリー事業と並んでもう一つの柱ともくろんだ原発事業で巨額損失が発生。その穴埋めをするためにフラッシュメモリー事業は売却に追い込まれました。

「利益が出ていたフラッシュメモリーを売らなくてはいけないのは寂しい。フラッシュメモリーを売ったら、(東芝に)残るものは何もない」(フラッシュメモリーの開発者 舛岡富士雄さん)

世界の最先端を走ってきたフラッシュメモリー。その売却で懸念されているのが、技術の流出です。今回、買収に名乗りを上げているのはグーグルやアップルなど世界の超巨大企業。中でも・・・

「我々は東芝への投資に本気だ」(ホンハイ精密工業 郭台銘会長 3月)

台湾のホンハイ精密工業は最も高いおよそ3兆円を提示しました。最先端の半導体事業が売りに出されるのは極めて珍しいのです。

フラッシュメモリーの生産拠点、三重県の四日市工場。工場のあらゆるところに設置された監視カメラ。 社員でも立ち入りが制限されるなど厳しいセキュリティーが敷かれています。東芝は、技術流出を防ぐために常に神経をとがらせてきました。

というのも、東芝には苦い記憶があります。今から25年前、東芝は、まだ成長途上だったフラッシュメモリー市場を拡大させようと、技術をサムスンに提供。

ところが、それが裏目に出ました。サムスンは巨額な投資で世界シェアトップに成長。日本企業のほとんどが撤退に追い込まれたのです。

「サムスンがいなければ、日本は大丈夫だった・・・」(フラッシュメモリーの開発者 舛岡富士雄さん)

技術流出によって世界トップの座を奪われた日本。さらなる流出には、日本政府も懸念を示しています。その背景には安全保障上の問題があるというのです。

「グローバル的にも大変高い競争力を持っている。情報セキュリティーの観点からも重要性がこれから増してくる」(菅義偉官房長官 3月)

東芝のフラッシュメモリーは政府の機密情報を管理する場所でも使われていて、特に中国への流出を警戒しているのです。

「東芝の半導体とシャープの液晶を同等に考えないでほしい。我々はホンハイなんかには絶対に売らない」(東芝幹部)

さらに、フラッシュメモリー事業は2025年にはおよそ9兆円に成長すると見込まれていて、外資に売却すれば、みすみす巨額の利益を手放すことになるのです。

そこで、今、対抗策として浮上しているのが日の丸連合による買収。政府系ファンドの産業革新機構が中心になって日本メーカーに参加を呼びかけています。

しかし、資金面で二の足を踏むメーカーもあり、日の丸連合が買収合戦を勝ち抜けるかは不透明です。フラッシュメモリーの“生みの親”は・・・

「日本に残すのが良いです、個人的には。海外に出すよりも日本に」(フラッシュメモリーの開発者 舛岡富士雄さん)

[via:TBS NEWS 2017/05]

東芝メモリ約2兆円で売却

東芝は6月1日、半導体子会社「東芝メモリ」を米Bain Capitalなどが組む「日米韓企業連合」に約2兆3億円で売却したと発表した。

日米韓企業連合が設立した買収目的会社Pangeaに、1日付で全株式を譲渡した。譲渡後、東芝はPangeaに約3500億円を再出資。Pangeaの持ち株比率は、Bain Capitalなどが49.9%、東芝が40.2%、HOYAが9.9%。日本企業側が過半数を占めた。

[via:ITmedia 2018年06月]
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1806/01/news130.html

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