平成4年に千葉県市川市で会社役員の一家4人を殺害した罪に問われ死刑が確定した関光彦死刑囚ら2人の死刑が19日午前、執行されました。
関死刑囚は犯行当時19歳の少年で、犯行当時少年の死刑囚に死刑が執行されたのは永山則夫元死刑囚以来です。
死刑が執行されたのは関光彦死刑囚(44)と松井喜代司死刑囚(69)の2人です。
関死刑囚は平成4年3月、千葉県市川市で会社役員の一家4人を殺害したとして強盗殺人などの罪に問われ、平成13年に死刑が確定していました。
関死刑囚は犯行当時19歳の少年で、犯行当時少年の死刑囚に死刑が執行されたのは永山則夫元死刑囚以来です。
松井死刑囚は平成6年2月、群馬県安中市で、交際していた女性とその両親の合わせて3人を殺害したとして殺人などの罪に問われ、平成11年に死刑が確定していました。
2人はいずれも再審=裁判のやり直しを請求していました。
第2次安倍内閣発足以降で死刑が執行されたのはことし7月以来12回目で、合わせて21人になりました。
犯行時に少年 死刑の妥当性争われる
死刑が執行された関光彦死刑囚(44)は平成4年、当時19歳のときに千葉県市川市のマンションで会社役員の男性(当時42)の一家を殺害したとして強盗殺人などの罪に問われました。
男性とその妻、母親、それに4歳の次女の4人が殺害された重大な事件でしたが、犯行当時、少年だったことから裁判では死刑を科すことが妥当かどうかなどが争われました。
1審と2審が「極めて残虐な犯行だ」として死刑を言い渡したのに対して、弁護側は「被告は親からの虐待などの影響で十分な判断ができなかった」などとして上告しました。
平成13年、最高裁判所は「暴力団関係者から要求された金の工面のため家に押し入り、4人を次々に殺害した残虐な事件で、少年だったことを考慮しても極刑はやむをえない」として上告を退け、死刑が確定しました。
NHKは少年事件について、立ち直りを重視する少年法の趣旨に沿って原則匿名で報道しています。この事件が一家4人の命を奪った凶悪で重大な犯罪で社会の関心が高いことや、死刑が執行され社会復帰して更生する可能性がなくなったことから、実名で報道しました。
松井死刑囚 交際相手と家族を次々殺害
松井喜代司死刑囚は、平成6年に、群馬県安中市で交際していた当時42歳の女性とその両親の合わせて3人を殺害し、女性の妹などにけがをさせたとして殺人などの罪に問われました。
1審の前橋地方裁判所高崎支部と2審の東京高等裁判所はいずれも死刑を言い渡し、松井死刑囚は「事件当時は正常な判断ができない精神状態だった」などとして上告しました。
平成11年、最高裁判所は「交際相手にだまされていたと思い込み殺害したうえ、相手の家族を次々に殺した責任は重大で、死刑はやむをえない」として上告を退け、死刑が確定していました。
再審請求中でも執行 法務省の姿勢明確に
再審請求中の死刑囚への執行はこれまで避けられる傾向がありましたが、前回に続いての異例の執行となりました。
法律では判決の確定から、原則6か月以内に死刑を執行するよう定めていますが、法務省によりますと、平成19年から去年までの10年間で、刑の確定から執行までの期間は平均でおよそ5年となっています。
刑の確定から数十年たっても執行されていない死刑囚がいる一方で、確定から1年たたないうちに執行されたケースもあります。
法務省は執行の順番や時期をどのように決めているのか具体的な判断基準を明らかにしていませんが、再審=裁判のやり直しを求めているケースは執行されにくい傾向があります。
これは死刑が執行された後に再審が認められるという事態を避けるために慎重に判断しているものと見られますが「再審が執行を逃れる手段になっている」という見方もあります。
今回は、前回7月の執行に続いて再審請求中の死刑囚が対象となり、請求の有無にかかわらず執行するという法務省の姿勢が明確になってきています。
[via:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20171219/k10011263581000.html]
ネットの反応
・速報きいたときは、光市の孝行かと思ったが、関光彦だったか
・こんな事件しらんが。ひどいな
・再審請求? オレは冤罪だとか?
・これは死刑やむなし
・25年も税金の無駄遣いしてたのか
・19でやらかして44歳まで三食付きで生かしてもらえたとか幸福の極みだろ。
・冤罪回避とはいえ長すぎねーか
・まずは被害者の長女を当初、共犯扱いした取材姿勢と報道姿勢を謝罪すべきだろ。
・殺害経緯と動機を聴取したら即死刑でも良かったくらいの事件だろ
・こいつはもっと早く執行されているべき糞野郎
・19歳で少年扱いとか、もうやめようよ
少年法の適用は小学生までで十分だよ
・犯行内容がスゲェ残忍よね
どうやったらここまで鬼畜になれるんだ
・両方の事件の経緯読んでも一ミリも犯人側に情状の余地が見当たらないんだが
・人権派弁護士の皆さんが抗議声明だしたりするのかな
・なんで、こんなにガチガチの冤罪の恐れが一ミリも無い
残虐な殺人事件の死刑執行にこんな長期間かかるんだよ!
・マスコミが必死に「少年を死刑にすべきでない」キャンペーンを展開したのを覚えてる。
で、たしか、文芸春秋が事件の詳細を書いてにして、これでも少年だと死刑にしないのか というような記事を載せた。
14時間で一家四人を惨殺した関光彦
関光彦は元々が相当なワルで、暴力・盗み・強姦などは当たり前で、ケンカ用にナイフや警棒などを持ち歩いているほどだった。
母や弟などは容赦なく殴り、祖父の金を盗んだ時には、そのことで怒った祖父に逆に腹を立て、祖父の顔面に蹴りを入れて眼球を破裂させ、祖父を失明させたこともある。
18歳の時(平成3年3月)千葉県船橋市内で一人暮らしを始める。同年10月25日、市川市内のフィリピンパブでホステスをしていたエリザベスという女性とフィリピンで結婚する。
元々の事件の発端は、2月6日、光彦が市川市のフィリピンパブの顔なじみのホステスを連れ出し、自宅に二日間監禁したことに始まる。
翌々日の8日、二人のホステスは泣きながら店に戻り、光彦に監禁されたことを経営者に報告する。怒ったパブの経営者は、知り合いのヤクザに光彦の落とし前をつけてくれるように頼んだ。この日から光彦はヤクザに追われることとなる。
11日、光彦はイライラしての行動か、東京都中野区の路上を歩いていた24歳の女性を襲い、鼻の骨を折るなどの怪我を追わせ、車に連れ込んで自宅に監禁し、強姦する。
そしてその翌日の12日。後に自分の家族四人を惨殺されてしまう「15歳の少女」はこの日、関光彦に出会ってしまう。
光彦は買い物帰りの少女の自転車にわざと車をぶつけ、車で病院に連れて行った後、自宅に送ってあげるふりをして自分の家に少女を連れ込み、監禁して強姦した。
その際、少女の生徒手帳から名前と住所を書き写し、誰にもしゃべるな、と脅しをかけた。
くしくもこの日の夜、光彦は暴力団組長から呼び出しをくらい、先の、ホステスを監禁した件で売上損失分と慰謝料として200万円払うように強制された。もちろん断ることも出来ないし、そのような金を持っているはずもない。
月は変わって3月5日。連日ヤクザに激しい追い込みをかけられていた光彦は、すでに家に帰ることも出来なくなっていた。ここで光彦は、先日住所を書き留めておいた少女の家に押し入り、金を強奪することを思いつく。
平成4年3月5日午後5時ごろ。
光彦はその少女一家が住むマンションに押し入る。その時マンションにいたのは少女の祖母(83)一人だけであった。光彦は通帳を出すように迫ったが、拒否されたため祖母の首を電気コードで絞めて殺害した。
光彦はそのままマンションに居座り、他の家族が帰って来るのを待った。そして約二時間後、少女(15)と母親(36)が一緒に帰ってきた。
包丁をつきつけ「騒ぐと殺す」と脅し、母の首を後ろからつかみ、「黙ってうつぶせになれ」とうつぶせを強要。母が背中を見せたところを容赦なく包丁でメッタ刺しにして殺害した。
光彦は床に流れた血を少女に掃除するように命じる。恐怖で凍りつきながら少女は黙々と掃除を行った。
間もなく4歳の妹が保母さんに連れられて帰ってきた。光彦はこの時点で二人殺しておきながら、少女に命じて食事を作らせ、光彦と少女と妹の三人で夕食を食べた。
間もなく妹は「おばあちゃんが寝てるから私も、もう寝る。」と言っておばあちゃんの部屋に入った。妹は、おばあちゃんが殺されているとも気づかず、遺体のそばで眠りについた。
通帳と印鑑の場所は父親しか分からない。光彦は父親が帰ってくるのを待つ間、少女に襲いかかり、強姦を始めた。
間もなくして父親が帰ってきた。いつもより早い帰宅だった。強姦の途中ではあったが、光彦は包丁を持って父親を待ち伏せ、いきなり左肩の辺りに包丁を突き刺した。
悲鳴を上げて父親が床に倒れる。
「現金でも通帳でもいいから200万出せ!」
倒れた父親を足蹴にしながら光彦が叫ぶ。父親は家族を守るため、通帳と印鑑の入った引き出しを教えた。口座に入っていたのは、銀行と郵便局を合わせて約360万。
「もっとあるだろう!」欲にまみれた光彦は更に上を要求した。
「(会社の)事務所に通帳と印鑑がある・・。」重症を負いながらも父親は答えた。
「取りに行くぞ! 親父の会社に電話しろ!」
もはや抵抗する気力の失せていた少女は、言われるままに父親の勤務先である編集プロダクションに電話し、これから通帳を取りに行くことを告げた。
会社に着くと父親の同僚たちが心配そうに事情を聞いてきたが、喋っては家に残っている父親と妹が殺されると思い、
「ヤクザがお父さんの記事が悪いと言ってお金を取りに来てるんです。通帳と印鑑があれば何とかなるからって・・。」とだけ言い、光彦のことは喋らなかった。
「大丈夫?」と聞かれたが「大丈夫です。」と答え、通帳と印鑑を受け取って会社を出た。
しかし少女が家に帰ってみると、無情にも父親はすでに殺されていた。一足先に帰った光彦がとどめを刺していたのだ。
朝になり、少女の家の電話が鳴った。昨日行った事務所の人が心配して電話をかけてきてくれたのだ。電話にはいったん出たものの、光彦に強引に切られてしまった。
「余計なこと話すんじゃねえ!」と、少女を怒鳴る。
怖がった妹が泣き始めた。「うるせえ!黙れ!」光彦は、泣いている妹に腹を立て、身体をつかんで背中から包丁を突き刺した。包丁は胸まで貫通した。
「痛い・・痛い・・」と苦しんでいる妹に対して、光彦は少女に「お前がとどめを刺してやれ!」と命令する。しかし少女が硬直して動けないでいたため、光彦が首を絞めて殺した。
妹まで殺されて、少女はここで初めて光彦に抵抗したが、「お前も殺されてーか!」と、逆に包丁で腕や背中を切りつけられてしまった。
「殺される・・」
そう思った瞬間、突然家のドアがバーンと開き、警官隊が突入してきた。
さっきの事務所からの電話が不自然に切られたこともあって、事務所のスタッフが「様子がおかしい」と感じ、警察に通報していたのだ。
現場に急行した警察官が外から様子を伺い、犯行を目撃した。そして事件と判断し、一気に室内に突入したのだ。
平成4年3月6日午前7時ごろ、ついに関光彦は現行犯で逮捕された。14時間における凶行は終わりを告げた。少女には毛布がかけられ救出されたが、祖母・母・父・妹は惨殺された。
逮捕された後も光彦は、平成元年年の綾瀬女子高生コンクリート詰め事件で誰も死刑になっていないことを引き合いに出し、「俺なんか楽勝でしょ。」などと語っていた。
「未成年が死刑になるはずがない。」、「とうとう少年院行きか。」ぐらいにしか思っていなかったというが、平成6年8月、千葉地裁が下した判決は死刑であった。
「金銭を工面するための犯行で動機に酌量の余地はなく、四人の命を奪った結果は極めて重大。犯行時、被告が少年だったことなどの事情を考慮しても死刑はやむを得ない。」
高裁、最高裁ともに上訴を棄却し、平成13年12月、死刑判決が確定した。「未成年であれば、どんな凶悪犯罪でも少年院で済む」と思っていた光彦の甘い考えは完全に覆(くつがえ)された。
[via:http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/001seki.htm]
生き残った少女のその後[追記]
事件後、両親の知人の下に身を寄せた後、事件1年後の1993年に熊本県の母方の実家に引き取られた。
高校を卒業後、故郷の熊本を離れ、事件前から夢見ていた美術系大学に進学して2000年春に卒業した。
永瀬の取材に対しては「もう、事件のことは忘れました。でないと前に進めませんから。(犯人のSが)どういう刑を受けようと、まったく関心ありません。でも(極刑は)当然だと思います」と気丈に語っている。
知人に対しては「バリバリ働いて私を育ててくれた母のようなキャリアウーマンになりたい」と将来の希望を語っていた。その後、Sの死刑確定後の2004年(平成16年)春にかねてから交際していた男性と結婚して日本を離れ、生前の両親の夢であったヨーロッパで暮らしているという。
[via:https://ja.wikipedia.org/wiki/市川一家4人殺人事件]
この少女は今でもマトモに生きら得ているのだろうか?