ミス・ユニバース日本代表[1953年]
今でこそ、ある種の性差別と目される形で、徐々にその数を減らしつつある感も否めないミスコンテストであるが、我が国においてはその歴史は意外にも長く、1891年(明治24年)に行われた『東京百美人』が、最初のミスコンであるとされている。
しかし、こうしたコンテストの舞台裏では、およそ健全な形で行われていたとは思い難いケースも、少なからず存在していたようである。
「うーん、私も何分、当時はまだ子供だったものだから、その辺の事情は詳しくはわからないのだけれども、大きくなって聞いた話じゃ、あまり良い噂は聞かないというのが正直なところだわね」
かつて、西日本のとある地方都市で行われていたという、独身女性を対象としたコンテストについて、渋々ながらもそう語りはじめたのは、当地で生まれ育ち、現在もなお、地域密着型の小規模小売店を夫婦で切り盛りし続けている吉田倹さん(仮名・87)。
「ミスコン」という認識ではなかったものの、もともと比較的早い時期から、町一番の美形女性を競う催しが行われていたという当地においては、その栄冠を得んがために、審査員側と参加女性側との間で、“大人の駆け引き”が公然と行われていたのだという。
「“枕”っていうのかね。審査員と女が寝るっていうのは、よくあったことらしいよ。そんな馬鹿げた話、本当にあるわけないって思うかもしれないけど、なにせ当時は賞品がものすごくてね。
金持ちしか持っていないような冷蔵庫だのでっかい桐ダンスだのって、それはもう、豪華だったんだ。一等がバイクだなんていう年もあったかな。
だからそういう賞品に目がくらんだ女たちっていうのは、少しでも自分が有利になるように、審査員をやっている連中に自分から売り込んで、そういうことをしていたようなんだよな」
今でも芸能界などでは、こうしたコンテストが行われるたびに、その“秘すべき舞台裏”について、あれやこれやと噂話や怪文書の類が出回ることは珍しくないが、そうした“大人の駆け引き”が、地方都市のミスコンで、しかもかなり古い時代から行われていたというのは驚くべきところ。
しかもそうしたことが行われていることを、多くの大人たちが知っていながらも、審査員をつとめる顔触れが、街の有力者であったことから、見て見ぬフリをしていたというのだから、開いた口が塞がらない。
しかし、そうしたある意味、「需要と供給のバランスがとれている」ともいうべき同コンテストは、ある時期を境に急速に衰退し、姿を消したのだという。
ミス・ギンザ[1955年]
「いやね、賞品が良くなると、いい女が集まるもんだから、どんどん加熱していったのよ。けどもね、裏ではそういうことをやっていたものだからね、いざ発表という頃には、腹ボテになっちまう女が増えたわけ。
さすがにこれはマズいってなって、そういう催し自体がなくなったそうだよ」
物欲に突き動かされた女たちと、肉欲に溺れた男たちによる“大人の駆け引き”が仇となる形で、思わぬ事態が頻発し、開催自体を断念せざるを得なくなってしまったとう、当地のコンテスト。
やはりいつの時代も、打算が絡む行事・風習というものは、なんともあっけない形で、その終焉を迎えるものなのかもしれない。
[via:tocana]
https://tocana.jp/2019/09/post_112929_entry.html
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ミスユニバース奈良県予選[昭和30年代]
ネットの反応
・ちっとも奇習じゃない
・1等賞品は赤ちゃんかよ
・実力者の子を孕めばミスコンに出る必要もないっしょw
・西日本とボカすな
・地方の上層階級 タネ植え付けで子孫繁栄 地方発展の原動力に 原発にも一役
・日本でやってるミスコンは、主催者側にいる化粧品会社なんかの回し者が評議員やってたりする。コンテストの前に結果が分かっていて、デキレースだよ。優勝者が利用している。化粧品はこれ!、エステはここのサロン! てな具合に客を集めるのさ
日本最古のミスコン
日本で初のミスコンは明治24年(1891年)。芸妓さん100人の写真を掲載して投票するかたちで行われた。
そしてこのコンテストで1等に輝いたのが玉川屋玉菊、17歳。新橋の芸妓さんでした。
そして一般人のミスコンとしては明治41年に開催された「令嬢美人写真募集」というもので、アメリカの新聞社「シカゴ・トリビューン」からの依頼で開催されました。このミスコンには7000枚もの応募があったそうです。
そしてこのミスコンで1等に輝いたのが末弘ヒロ子さん、当時16歳。
小さな頃から舞踊、茶道、華道を学び、琴とピアノもやっていたという絵に描いたようなご令嬢。でもコンテストへの参加が原因で学校を退学処分になってしまった。
[via:https://mag.japaaan.com/archives/15166]